☆北嶋八重さんが田島主宰のお若かりし頃の著作について紹介文を書いてください
ました。
『文学に登場した播磨の昨今』(昭和47年)田島和生著
北嶋 八重
田島和生主宰は、昭和44年4月から47年2月までの3年弱(31歳から34歳)を、新聞記者として、姫路で勤務されました。仕事も忙しく大変な時代だったようですが、休日を利用して、人に会い、現地を歩いて書かれたものを、新聞に20回連載され、それらを地元の文学愛好者たちの協力を得て、出版されました。
平成6年に開催された播磨文芸祭「繚乱の季節展」で、この本も特別展示室に飾られ三島由紀夫の本と並んでいたのにビックリされたそうです。
前書には、以下のように書かれています。
抜けるような青空に浮ぶ名城、果てしなく広がる播州平野。清らかな播磨灘の流れ。かつて美しい風土に生まれ、人情豊かな、この播磨を、こよなく愛した文学人たちは多い。(略)―あわただしい日々の生活の合間に、文学に登場した播磨を見直し、変わりゆく自然を縦軸に、移りゆく社会を横軸に、美しく悲しく織りなされる「人間絵巻」をつづってみた。
この中で、宮本百合子、和辻哲郎、竹久夢二、三木露風等とともに、椎名麟三を紹介されています。椎名麟三(1911〜73)は「深夜の酒宴」「美しい女」「自由の彼方で」などの作品、ミュージカル「姫山物語」の上演で知られている姫路出身の作家。実存哲学の立場から日常生活をリアルに描き「絶望の作家」ともいわれています。
椎名麟三『菱の花』(昭和35年)より
私の家は、女人堂という寺へ行く石段のたもとに建てられていた。私は、学校から帰って来るとそこでひとりで遊んでいるより仕方がなかったのであるが、その石段への寺へ用事のある村人やときたまやって来る参詣人たちが上ったり降りたりした。(略)その石段は、四十三段あった。私は、この事実を誰かに教えたくてたまらなかったのだが、誰にも話すことができなかったのだ。
この地を訪ねられたかつての田島記者は「椎名麟三の生家は書写山円教寺の登り口。いまは人手に渡ったが、古びた女人堂の石段の下、五十年前と少しも変わらぬ姿で、つつましく建つ」と、書写東坂の女人堂について、ふれられています。
椎名麟三の生家と文学碑
『菱の花』に登場する女人堂への石段
女人堂(現在・如意輪寺本堂)
1002年開山の書写山圓教寺は、女人禁制となり、開祖性空上人は「女人堂」を建立し、女人巡礼の札所としました。女人禁制は明治維新まで続き、この御堂で女人は御札を受け、男たちが山から下りてくるのを待っていたと伝えられています。
田島主宰が訪ねられた当時の「女人堂」は、20年前に立て替えられており、現在は「如意輪寺本堂」として、地域の人々に親しまれています。
書写山圓教寺は、西国三十三観音霊場第二十七番札所として、また映画「ラスト サムライ」のロケ地とし知られ、多くの人々が訪れています。「女人堂」のあった如意輪寺境内よりの山道は、今も圓教寺登山基点の一つとして、ハイキング客に利用されていますが、ロープウェイに乗れば、麓から約4分で山上に着くことができます。
如意輪観音像(姫路市指定重要文化財)
鎌倉時代の運慶の弟子の作と伝えられています。(特別開帳)
守護使不入の石標(姫路市指定重要文化財)
八重さん、素敵なご紹介をありがとうございました!
田島主宰も、「ぼくの本の紹介をしていただき、昔の自分に出会ったような懐かしく、不思議な気分です」と、大変喜んでおられるとのこと。お若い頃の先生のお顔も掲載され、とても貴重ですね。
八重さんは、ご子息が上記、書写東坂(書写山の麓)の天台宗・如意輪寺のご住職でいらっしゃるので、度々お訪ねになるそうです。
金色の厨子の開かれ菊日和 八重
素敵な一句ですね。
ぜひ拝読したいです!